すぐに使えるほりかわテクニック7選
【平成29年4月3日(月)参拝】
九條陵、東山本町陵墓参考地のあとは、伏見街道を北進し、泉涌寺へ
この東福寺界隈は過去七度、鳥戸野陵を訪れましたが、今回からは幾度となく泉涌寺に通うことになりそうです。
泉涌寺総門
後堀河陵は泉涌寺伽藍の方ではなく、左手の参道を通っていきます。
左が後堀河陵、右に行けば孝明、英照皇太后陵。
後堀河(ごほりかわ)天皇陵 御陵名:観音寺陵 陵形:円丘 所在地:京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
拝所はこの上になります。
ここは泉涌寺境内から外れているのか鳥居がありました。
御陵参道と伽藍の間にある桜が満開で綺麗でした。
後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) – 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) – 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。
高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。
承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保
の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる。
茂仁王も十楽院僧正仁慶の弟子となり、すでに十楽院に入室していたが、まだ正式に出家していなかった。立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後同日の承久3年7月9日(1221年7月29日)践祚、同年12月1日(1222年1月14日)即位。
後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。この時代は、主に承久の乱の後処理が行われていた。貞応2年(1223年)5月、守貞親王薨去。
貞永元年10月4日(1232年11月17日)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であり、院政開始後2年足らずの天福2年8月6日(1234年8月31日)に23歳で崩御した。その崩御が中宮竴子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正仁慶の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。
【系譜】
皇后:藤原(三条)有子(安喜門院)(1207-1286)
中宮:藤原(近衛)長子(鷹司院)(1218-1275)
中宮:藤原(九条)竴子(竴は、[立尊])(藻璧門院)(1209-1233)
・第一皇子:秀仁親王(四条天皇)(1231-1242)
(参考文献:2016年11月11日ウィキ抜粋)
このあとはいよいよ月輪陵へ
ほりかわの栄光と没落
天気がいいと朝早くてもテンションがあがります